
どうもです、僕たかしです。
今、大きい問題にぶち当たってます。
どこかのプロブロガーが言っていました。「自分の行動全ての理由を答えられるようにしとけ」と。
なんでブログを書くのか、僕は明確な答えを用意できていない。
ブログでカネを稼ぎたいのか?
ブログで友達を増やしたいのか?
ブログで自分を見てもらうのか?記事内容を見てもらうのか?
そのへんをちゃんと整理してブログ運営せなアカンなと思いました。
理由:感性の合う人と出会いたいから
ネットメディアを通して感性の合う人とだけ付き合いたいというフレーズを使うブロガーをちょこちょこ見かけます。
僕もその考え方に大賛成です。
一昔前は家族・学校・職場など、物理的周囲の限られた人たちとしか付き合いは生まれなかったので、自分とウマが合わない人ともどうにかこうにかして付き合いを続けなければいけませんでした。
現在はつながろうと思えばブログ・SNSを使って世界中の人とつながることができる時代です。腐るほどいるネット人口の中から自分に合う人を選別するなんて贅沢なこともできちゃうわけです。
感性の合う人とだけ付き合っていければ、お互いに気持ちの良い時間を過ごすことができる。こんな幸せなことが他にあるでしょうか。
感性が合う人を引き寄せるために自分の感性をさらけだす
じゃあどうやって感性の合う人を見つけるのか?
- 自分から見つけに行く
- あっちから見つけてもらう
僕がブログを書く理由は②。
自分と感性が合う人を引き寄せるには、まず自分の感性を表現する必要がある。
ワタシはこう思う、これが好き、これが嫌い、といった自分の価値観を発露してはじめて読んだ人がワタシを認識してくれる。それを形にしたものがオピニオン記事です。
逆に、お役立ち記事・まとめ記事のような自分存在を主張しない記事では、読者が書き手の存在を認識することは難しいでしょう。
感性をさらけだした記事は検索需要がない
役に立つ記事は検索需要がありますが、オピニオン記事にはさほどありません。
需要の高いお役立ち記事がカレーライスだとしたら、感性をさらけ出したオピニオン記事はウ◯コのようなものです。
ただでさえ少ない訪問者もその臭さゆえに99割離脱することでしょう。
それでも僕は自分の価値観のウ◯コを店先に陳列する。
訪れた人がショーケースに入ったソレを見て、生理的に無理と思ったら帰っていただき、「臭いけど嫌いじゃないね…」と思った極めて少数の人だけが残ってくれればいい。
他人のウ◯コをいいねなんて言ってくれる人いるわけないだろ!って話ですが、こんだけネット人口が増えた今日なら、もしかしたらそんなスーパーレアな人に巡り会えるかもしれない、と淡い期待を抱いてしまうのです。
否定されるのを恐れない
これまでの人生、否定されるのが恐くて自分の考えを外に出してこなかった。
そもそも、自分の考えを持とうとしてこなかった。
人と意見がぶつかるくらいなら、相手に合わせて自分を変えたほうが楽だし、最初から自分を殺していたほうが平和に事が進む、そう思って生きてきました。
しかし、自分と波長の合う人と巡り合うためには否定されることを恐れていてはいけない。そもそもウ◯コをさらすのだから否定されて当たり前。「くっさ!」と言われる覚悟が必要なのです。
もちろん、ウ◯コをさらさず、誰にも迷惑をかけず、知られず、嫌われず、人生を終えるという選択肢もあるでしょう。
でも色々考えた結果、百千の無視と否定の先にあるかもしれない「君のウ◯コいいね!」こそ僕の人生が一番欲している言葉だと思い至りました。
だから僕はもっとウ◯コを出すし、もっとウ◯コを見せつけていく。
自分の感性を上手くのせたお役立ち記事も書く
これまでのブログ記事には強烈なウ◯コ記事は恐くて投下していません。
せいぜいカレーライスにウンコの欠片をふりかけた程度の記事。つまり需要がありそうな記事に自分の感性を少し乗せて表現しているだけだ。
いや、本来ブロガーとしてはそれが正しいやり方なのかもしれない。人気ブロガーはその手法が実に巧みです。役立つ記事を書いてなおかつ上手に自分の色もつける。結果、検索需要も高くそこから定期読者も増やす。
・・・うん、やっぱりたまにはウ◯コ風味のカレーライスも作ろうと思います。訪問者を増やさないと感性の合う人と出会う確率も上がりませんからね。
ちなみにウ◯コのニオイはめっちゃ薄めるとイイ匂いになるそうです。
要は他者承認がほしいから
ウ◯コの話はひとまず置いておきましょう。
つまるところ僕は、他人から、自分の行いを、考え方を、承認してほしいのです。
感性が合う人と出会いたいというブログの目的も、言ってしまえば自分を肯定してくれそうな人を周りに集めたいだけ。
でも承認欲求そのものを否定しようとは思いません。
承認欲求は人間なら必ず備わっている欲求ですから。
承認欲求からは逃れられない
承認欲求をモロ出しにすることは見苦しいのだろうか。みっともないだろうか。カッコ悪いだろうか。恥ずべきことだろうか。叩かれるべきことだろうか。
誰だって自分のことを褒めてほしいと思ってる。子どもも大人も関係なく。大人になったからといって承認欲求が小さくなるわけでもない。
たしかに、他人からどう思われようと自分で自分にイイネして己の道を突き進めるのが理想の生き方です。
しかし、アドラー心理学の本『嫌われる勇気』を読んでみたりしましたが、「他者承認などいらぬ!」という仙人のような境地に達することはどうやってもできそうにありません。
僕は他者承認からの脱却をあきらめ、かわりに他者承認とうまく付き合っていく方向に切り替えることにしました。
他者承認を目的にすると自分が死ぬ
人間誰しもが持っている承認欲求を満たそうとすることは悪いことじゃない。
悪いことではないけど、ただ他者承認を受けることを目的とした行動はやめた方がいいです。
なぜなら、他人の顔色を伺い期待に応えようとすることだけを目指すと、自分を殺して生きることになるからです。
他人に嫌われることを何よりも恐れるため、自分の欲求や主張を抑え込んでしまう。
僕はそんな他人日和見な生き方をしてきた結果、自分が何をしたいのかを考えなくなり、主体的な人生選択をしなくなり、責任をできるだけ避け、他人の意見指示に流され、不利益を被ったときは裏でルサンチマンを遺憾なく発揮する、いわゆるクズに成り果ててしまいました。
承認欲求との付き合い方 自己承認=ごはん 他者承認=おやつ
他者承認に振り回されていては自分の人生を生きることができません。
かといって、自己承認オンリーで自分の道を歩いていける猛者はそうそういないでしょう。できるならばそれが理想かも知れないけれど、全く他人に承認を求めずに生きていくのはツライ。
だので、自己承認を自給自足しつつ他者承認もちょこちょこ貰いながら生きていくのがこの問題の落とし所ではないでしょうか。
たとえるなら自己承認がごはん、他者承認はおやつって感じ。あくまでもメインは自己承認を食って生きていく。
ごはんを食べて、ウ◯コして、おやつをもらう。これが理想のサイクルです。
まとめ
いろいろ脱線しましたが、僕がブログを書く理由を整理します。
- 大目的:他者からの承認を補給したい。
- 小目的:承認の安定した享受のため感性の合う人を見つけたい。
- 方法1:ウ◯コのような強烈なニオイのする記事を書く。それが共感されたとき最高に感性が合う人に出会えたことになる。
- 方法2:並行してウ◯コ風味のカレーライス記事を書く。訪問者数を増やし感性が合う人と出会う確率を上げる。
というわけで、これからもたかしのブログをよろしくお願いします。